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人形浄瑠璃と「西塩子の回り舞台」




・組立式舞台では人形浄瑠璃も行われていた

 古老(昔の事や故実に通じている老人)によると、西塩子にはかつて人形浄瑠璃の一座があったそうです。それを裏付けるように『仲摩諸道貢控帳(なかましょどうぐひかえちょう)』(文政六年)には頭(かしら)など人形の道具が記載されています。




 水戸城下には、まだ幼かった末っ子の初代藩主頼房に、徳川家康が与えたという伝承を持つ人形浄瑠璃の一座、大薩摩座(おおさつまざ)があり、領内の農村でしばしば興行を打ち、水戸泉町に常設の芝居小屋も持っていました。この大薩摩座の影響により水戸領内では人形浄瑠璃が盛んであったといわれ、市内にも舟生(ふにゅう)や西野内(にしのうち)に人形一座がありました。また、組立式舞台を持つ集落のうち人形浄瑠璃を行なっていたと伝えるところが三ケ所あり、舞台の道具に混じって今でも人形の頭や手足などが残っています。日立市の有名な人形からくりの山車である「日立(ひたち)風流物(ふうりゅうもの)」の成立にも、そのような水戸領内の影響があったのでしょう。








・西塩子の回り舞台は人形浄瑠璃の舞台でもあった!?

 「西塩子の回り舞台」には、江戸時代後期、文政年間の道具も残っていることから、この頃にはすでに舞台の組立てが行なわれていたと考えられます。同時期に人形の道具を保有していたこと、また、舞台背景となるフスマと呼ばれる道具の大きさや図柄が、遠く徳島県の人形浄瑠璃の道具と共通する事実からみると、「西塩子の回り舞台」はもともと人形浄瑠璃の舞台だった、と言いたいところですが、文政三年に作られた大幕の幅が六間(約十一㍍)もあり人形の舞台としては大きすぎます。確定はできませんが、歌舞伎と人形浄瑠璃、どちらにも使えるよう配慮された舞台だったのかもしれません。

 残っている記録を見ると、明治三四年に人形浄瑠璃の道具は売り払われています。どうも明治の初めには人形浄瑠璃は行なわれなくなったようで、その後「西塩子の回り舞台」では、もっぱら買芝居による歌舞伎が昭和二○年まで行なわれてきました。










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