・歌舞伎の始まり
・歌舞伎の成り立ち
その後、享保の改革の影響や、天才劇作家 近松門左衛門の登場で人形浄瑠璃に人気をさらわれるなどして一時低迷しますが、人形浄瑠璃の演目や演出手法を採り入れたり、回り舞台など舞台機構にも工夫がされて歌舞伎は進化してゆきます。
・現在への流れ
「歌舞伎(かぶき)踊(おどり)」という名称の初見は慶長八年、西暦一六○三年です。当初死者の霊を慰めるために行われた風流踊(ふりゅうおどり)をもととした「ややこ踊」などを演じていた出雲のお国が、当時の「かぶき者」(奇抜なファッションをした世間のあぶれ者)の風俗を採り上げ、踊りに仕立てたものといわれています。これが京で大当たりして熱狂的な支持を受け、次々と芸団ができて地方に下り、また地方にも歌舞伎を演ずる座が数多くできて全国的に流行しました。
しかし、「風俗を乱す」という理由で幕府からたびたび禁令が出された結果、十七世紀の半ばには、お色気を売り物とする歌や踊りではなく、男だけで「物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)」、つまり演劇としての芝居を行うという現在の形となり、風俗を採り上げた寸劇から物語性を持った演劇へと発展してゆき、これもすみやかに地方に伝えられてゆきました。水戸城下でも、早くも延宝六年(一六七八)に歌舞伎の興行が公許されています。
そして十八世紀には、村にやってくる人形浄瑠璃や歌舞伎の興行を、待ち、見るだけでは飽き足らなくなった農民たちが、自ら舞台に立って芝居を演ずるようになります。提灯のあかりで暗闇に浮かび上がる屋台や農村舞台の上で、キラと呼ばれる豪華な衣裳をまとった役者が悲喜劇を展開する異空間は、演者も見物も酔いしれる、まさに祭礼の華。またたく間に歌舞伎が全国に広がった理由が、現代の私たちにも容易に理解できましょう。
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